戦後、朝鮮半島で虐殺された日本人17690名

この記事はこちらから引用させていただきました。

https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-359.htm

 

 

戦後、朝鮮半島で虐殺された日本人17690名
朝鮮人の日本人虐殺・ヘイト2016/01/2812:12 - -
と言っても軍人ではありません。日本敗戦直後、朝鮮半島で虐殺された一般の日本人の数です。

この中には赤ん坊や女性、子供も含まれています。

在鮮日本軍人のソ連への強制連行や引揚は終戦の翌年四月までに完了しましたが、日本の民間人は

「米ソ協定締結後に送還する」

という理由で戦後三年間も朝鮮半島に抑留されました。

その三年間の間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺をさまよいながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいきました。

その遺体は棺を買う金も、火葬する金もないためにコモやムシロで巻かれ土葬されました。

戦争は終わったのに、軍人ではない民間人が抑留され、殺されたのです。

かたや在日朝鮮人は祖国が独立したのに帰国せず、「日本で革命を起こし共和国にする!」と叫んで共産運動に熱を上げていました。その共産運動を奨励したのはGHQです。

これもりっぱな日本人差別、対日ヘイトですね。


【1946年5月1日食糧メーデーで宮中になだれこむ共産党共産主義者


生活保護をよこせ-長田区役所襲撃事件


【邦人団体初の「墓参」北朝鮮
なぜか2500名近い日本人が殺された平壌から清津へ。清津の近くにある古茂山(こもさん)には小野田セメントの工員社宅があった。ニュースも「軍人」としか言わない。


まず、米軍と朝鮮人は日本人の身ぐるみをはぐことから開始しました。朝鮮人は暴力で日本人の財産を接収し、接収後は日本人の立ち入りを禁止しました。

また米軍も接収した日本人の資産を朝鮮人に管理させました。

日本軍撤退後、日本人の学校、銀行、工場、百貨店、商店、会社、神社、寺院、病院、風呂屋などを敗戦国民朝鮮人が接収、米軍が接収した日本の資産も管理人は朝鮮人@ソウル


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南-朝鮮引揚史  その三-」

 

 南鮮の日本軍後退と米軍の進駐

 九月九日午後三時四十五分、総督府第一会議室で降伏文書受諾の儀式がおこなわれた。午後四時二十分総督府正面門前の日本国旗を降しこれに代って星条旗が軍楽吹奏裡(り)に掲揚された。

 調印式後、太平洋米国陸軍総司令部布告は一号から三号まで公布された。かくて総督統治三十六年は終った。

 十三日に米軍は開城に進駐し、(ソ軍は十一日まで開城にいた) 十六日には釜山に進駐した。清州(せいしゅう)忠北(ちゅうほく)進駐は九月十七日、春川(しゅんせん)(江原道)進駐は九月二十日、大邱(たいきゅう)慶北は九月下旬、全州(全北)は九月二十九日、光州(全南)は十月五日、大田(たいでん)(忠南)は十月初旬であった。

 十二日、西広警務局長が解任され、憲兵司令官L・E・シュイツ代将が兼任、京城府尹(ふいん:日本の町村長にあたる)にキロフ少佐が新任された。

 十四日には政務総監以下各局長が罷免され、今後行政顧問としてのこることを命ぜられた。各局、各課は米軍側に事務引つぎがおこなわれた。十八日米軍政首脳部政務総監ハリス代将以下各局長の発表をみた。十九日阿部総督は、米軍飛行機で東京に帰還させられた。

 日本軍が撤退するとともに、朝鮮人側から接収運動がおこされた。

 これは北鮮において、日本人の重要施設が人民委員会の手に渡されたことが大きな刺戟となったのであるが、××同盟、〇〇連盟、□□団という名を記した紙が、およそ市内の目ぼしい建物にべたべたとはられた。日本人は、

「ホッジ中将の命令書をもって来なければみとめぬ」

 といってみても何ともできなかった。学校、銀行、工場、百貨店、商店、会社から神社、寺院、病院、風呂屋にいたるまで、また住宅も大きなところはほとんど朝鮮人側の手に移った。

 米軍は大きな建物には、M・Pを派遣した。背の高いM・Pのたっている警察署に日本人警官が腕に英語で「米軍政補助者」の腕章を巻いて出入していた。しかしそれも長くはつづかなかった。日本人はぞくぞくやめさせられた。

 米軍は重要施設を直接管理する方針をすすめ、九月十四日、京城電気会社、十五日朝鮮電業、十六日に南鮮放送施設、十九日同盟通信、朝鮮書籍印刷住宅営団を、さらにその後食糧営団、重要物資営団、三陟(さんちょく)開発、鉱業振興、朝鮮工業協会、朝鮮石炭、九月二十五日に京城日報、十月中旬には東洋拓殖、朝鮮銀行殖産銀行を接収し、朝鮮人の管理人をきめて行った。

【今も生きる××同盟、〇〇連盟、□□団】

 

次に米軍は日本に引き揚げる際の手荷物を二個まで、と規定して家財や他の荷物は宅配で送る、と言って日本人から手数料を取りました。

しかし日本に帰還した人の手元に荷物は届きませんでした。なぜなら、米軍と朝鮮人が荷をほどいて山分けしてしまったからです。

その上、米軍は在鮮日本人がすみやかに帰国できるよう、在鮮日本人が組織した日本人世話会の資金も凍結しました。

米軍が日本人の託送荷物を没収、世話会の資金も凍結
米軍「ボランティアに給料は払わぬ」@ソウル


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「三八線に変貌する北と南-朝鮮引揚史  その三-」

 

 引揚者の恨み軍政法令三十三号

 南鮮からの引揚日本人に痛恨事がある。

 それは、二十年十二月六日に法令三十三号によって、この年九月二十五日以後、日本国家および個人の財産は一切米軍政庁の取得と宣言されたことである。

 米軍は十月に、日本人がその財産を朝鮮人に売渡す途(みち)を開いて、特別に朝鮮銀行に封鎖された貯金通帳に入れることを、みとめた。それが一切無効となった。

 また荷物も一人二個まではみとめてそれを世話会にあとで送らせるということについて、民政長官プレスコット大佐の手紙まででていた。京城の世話会はそのために特別に荷物輸送部をつくって、禁制品の指示をし、保管料までとって約二万四千個の荷物をあずかっていた。

 釜山でも、約二万八千個あずかっていた。大邱、大田、群山、全州、その他の土地でもこの荷物の保管はおこなわれた。それがこの法令がでてから一切没収され、世話会はその後、懸命に陳情をかさねたが、遂にゆるされなかった。(台湾や華北〔中国北部〕ではこの托送がみとめられたのに)

(中略)

 またこの法令によって、世話会の資金一千万円余が米軍の凍結となり、そのかわり、一カ月の資金と物資が軍政庁からあたえられた。(それまで月に百五十万円を使っていたのが、月三十万円程度の支給となった)

アメリカでは慈善事業はお金のあるものがしている。その職員に俸給など出す必要はない」

 こういうことを当時の軍政係官は公然といっていた。

 

 

日本人が預けた荷物を米軍と朝鮮人で山分け@ソウル


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日報社主筆 中保与作 「略奪と赤色の劫火」

 

 あと書き ─── 大ていの引揚者は、二、三個から十数個の荷物を、一コ当り三百円の特別運賃と和英両文の内容を記した書類とを添えて、日本人世話会指定の、運送業者へ托している。

日本人世話会が骨を折って米軍の諒解を得てくれたのであった。しかし、日本へ帰ってから、いくら待っていてもそれは遂に来なかった。

京城に残る日本人が数えるばかりになった頃、米軍はそれを韓国側に引渡したからである。その荷物も解いて、米人向きのものとに分け、韓国人向きのものはみんなに売り払ったのであった。公然たる泥棒市場を開いたのである。

 

 

北朝鮮の咸興といえば、韓国ドラマにもよく登場する場所ですが、その咸興駅前で約4000人の日本人が乞食同然に寝起きしていました。

ある避難民は、ワラで編んだ袋を頭にかぶって雨にふるえながら鮮人家屋からゆうげの煙がのぼるのを見た時、家族と抱き合って泣きくずれた、と言っています。

そして咸興から移動させられた新中里(しんちゅうり)では、昭和21年1月までに日本人避難民6400名が死亡し、その後も一日50人平均で死んでいきました。

日本人避難民4000名が駅前で野宿、
朝鮮保安隊が日本人の荷物を検査し「市外撤退」を命令、
咸興で死亡した日本人避難民は1946年1月までに6400名+1月は日平均50名、孤児の死亡61名@咸興(北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 避難民のまち咸興

 茂山(もさん)、白岩(はくがん)から南下してきた人達は、ソ連兵の暴行略奪、部落ごとにくり返される保安隊(朝鮮人が組織した団体)の監視や荷物の検査になやまされつつ、残暑きびしい中を、咸興、興南、元山(げんざん)の都市へ集結した。

 咸興にはすでに、八月二十日、清津から避難民四千名が下車して、咸鏡北道避難民会を組織し、武徳殿にその本部がもうけられていた。

(中略)

 その後、咸興に流入する避難民がふえ、九月中旬には、一万三千名を数えていた。

 十九日咸興駅前広場には、南から咸興駅に逆送されたものと、城津方面から南下したもの等あわせてえ四千名が野宿していた。

 たまたま興南に収容されていた英濠捕虜をうけとりに、米軍が京城からやってきた。ソ軍はあわてて、朝鮮保安隊に、日本人避難民を目にふれぬところにおけと命じた。

 保安隊は避難民に「咸興市外撤退」を命じた。

 四千名の日本人は三々五々、万歳橋をわたって、市内をでて、咸興から八キロの新中里(しんちゅうり)で野宿生活をした。

 折りからふりだした雨は連日小止みなくふりつづいた。ある避難民は当時を回想してこう語っている。

「叺〔かます穀物、塩などを入れるわらむしろで編んだ袋〕一枚を頭にかぶったまま雨にうたれて、堤防におきふしの毎日々々に、持っていた米もなくなってきた。とうとう最後の三日間は、食うものの何一つなく、腹の底まで冷えきった身体を、親子でだきあったまま坐(すわ)っていた。物乞いに行きたいと思いながら、いじめられるのではないかと思って、じっとしていた。夕暮れになって、遠くわら屋根の朝鮮家屋から、夕餉〔ゆうげ:夕食〕の煙が、雨にたなびいているのをみた時家族達は相擁(あいよう)したまま泣きくずれてしまった」


 ざん壕式の墓穴掘り

 寒さの訪れとともに、避難民の生活は苦しくなった。着物は真夏に家を出た時のままであり、もち物はながい逃避行でなくなっていた。

 不潔な密集、極度の栄養失調に発疹チフス再帰熱などが猛威をふるった。

 咸興日本人委員会の統計では、翌年一月までに、死亡者六千四百名をかぞえ、一月の死亡者は、一日平均五十名をこえていた。

(中略)

 十月末には、西本願寺に孤児の収容所が開設されたが、収容者二三二名のうちで、六一名は死亡した。

(中略)

 咸興では、結氷前に当時の三万名中一割が死ぬという計算で、日本人四千名が動員されて、前四十三部隊の裏山に巾四メートル、深さ二メートル、底二メートルのざん壕式の壕を帯状に掘る作業をはじめた。

【茂山・白岩・清津・咸興・興南・元山・新中里】

 

咸興から富坪(ふうひょう)に移動させられた日本人避難民は零下15度という極寒にありながらムシロ一枚とわずかな配給しかなく、栄養失調、発疹チフスなどの伝染病で1431名が死亡しました。

昭和21年1月なかば、日本人共産主義者の訴えで朝鮮側の検察が避難民の状態を視察しに来ました。しかし時すでに遅しで、富坪での日本人避難民死亡率は四割に達しました。

咸興から移動を命ぜられた日本人3282名、
零下十五度を上下する厳寒で窓ガラスもなく食べ物もなく1431名死亡、
遺体は棺もなく、火葬する金もなく、日本人の手で埋葬@富坪〔ふうひょう〕(北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 富坪(ふうひょう)の悲劇

 十二月に、咸興から富坪に疎開を命ぜられた三二八二名は、咸北(かんぼく:咸鏡北道)の第一線から茂山、白岩の山中をさまよい、苦難の末、咸興に入り、先述の遊廓地帯で、病魔、死魔の中を彷徨していた人達である。

 疲れはてた身体をどうやらおこして行けといわれた富坪は、もと、日本陸軍の演習廠舎(しょうしゃ)だった。

 ここは終戦後、日本軍捕虜が抑留されたところで、その後荒れ放題にあれ、九棟の建物のうち、六棟までは窓ガラスがなかった。衣類、寝具もあたえられず、ただ叺〔かます〕二千枚があるだけだった。

 ガラスのないために、叺がぶらさげられた。炊事施設はなく、各自がめいめいの室(へや)の中で炊事をした。

 採光はできず、炊事の煤煙は室にいっぱいとなっていた。零下十五度を上下する厳寒である。

(中略)

 わずかにあたえられた配給以外、買物もできない。栄養失調、発疹チフス再帰熱の死者はつづいた。

 一月半ばに、ここを朝鮮側の検察当局が調査して、死者と病者のその凄惨におどろいて、実相とその原因を究明した意見書を発表え、

「一日も早く死滅の深刻から救わねばならぬ」

 と緊急な対策をもとめた。

 米の配給がおこなわれ、咸興日本人委員会から衣類がおくられ、医療の改善がすすめられたが、しかし四月までに、死亡者一四三一名を数え、逃亡者四百名を除けば死亡率四割、北鮮でもっとも多い犠牲をだしたところである。

 終戦当時、会寧郡守(ぐんしゅ)だった川和田秋彦氏の一家も、この富坪に流れこんでいた。翌年五月五日、脱出がみとめられる時、この富坪廠舎のうら山の死亡者の墓地で、 ─── みんな土葬 ─── 慰霊祭がおこなわれた。墓石とてなく、ただ松の木をけずって、 「嗚呼(ああ)戦災日本人の墓」 と刻して、そのうしろに

「この地に死亡した日本人千四百三十一名の冥福を祈り、残留日本人これをたつ」

 と記した。

 川和田氏が追悼文をよみあげた時、全生存者は声をあげてなき、山野をゆるがすほどであったという。川和田氏自身もここで二人の子を失った。

  吾子(あこ)ふたり非業の死にし引揚の
     かの思出(おもいで)は消ゆるときなし

 川和田氏は、

「行ける時があったらと思って私の子供を埋葬したところは、わかるようにしてあります。いつか行って骨を拾ってきたい」

 と語っている。

【咸興・富坪】

 

咸興の近隣にある興南には日本チッソがありましたが、それも北朝鮮に接収されました。

その後、日本人は工場への立ち入りを禁止され、社宅を追放されて約3000名が死亡しました。

日本チッソ朝鮮人が接収、日本人は工場立入を禁止され、社宅を追放された
日本人避難民3000名死亡、凍土をたき火で暖めて掘って遺体を埋葬@興南北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 工都興南と日本人技術者

 日本窒素興南工場が朝鮮人側に接収されると、日本人従業員は入場禁止となった。日本人技術者がいなくなれば工場は動かなくなることは分っていたが、

「工場を日本人の手でつづけるよりも朝鮮独立の象徴として、朝鮮人の手にうつすべし」

 という革命時の主張が勝(かち)をしめ、朝鮮人労働組合の生産管理にうつされたのである。

 興南の日本人人口二万五千名の内、九割は工場関係者であり、この処置はもっとも大きくひびいた。

 九月十五日から、日本人は従来の社宅から追放されて、せまい朝鮮人工員社宅に、二、三家族ずつ入ることとなった。

 終戦直後永安工場にいた千三百名、朱乙(しゅおつ)、吉州(きっしゅう)の日窒従業員、それから茂山、白岩から南下してきた阿吾地(あごぢ)人造石油の人達が、親会社をたよって入ってきた。十一月には咸興から千三百名が疎開してき、避難民は一万一千をかぞえた。

 冬が近づくとともに、これら避難民の死亡者はふえて行った。日本人の土葬の墓地は、鷹峰里(ようほうり)の背後の三角山が指定され、毎日十いくつ、二十いくつの屍体がはこばれた。

 十二月になると、ここにも各地区に長さを割あて、使役部隊によって墓壕(ぼごう)をほったが、それも一月末にはいっぱいになってしまった。厳寒の中で、朝早く行って焚火(たきび)をしながら、掘って夕刻埋葬ができる状態だった。春までの埋葬者は、三千をかぞえた。

 興南在住者では身よりのない少年工 ─── この人達は終戦直前に、わざわざ内地から募集してきた年端もゆかぬ人達 ─── の犠牲が大きかった。

興南

 

元山(げんざん)では日本人避難民に食糧の配給がありませんでした。

ソ軍にかけあっても取り合ってくれないので、日本人は使役で働くからという条件を提示してわずかな配給を得ました。

そして元山と高原では約1100名の日本人が、冬を越せずに死亡しました。

ソ連軍は二カ月間のまず食わずで戦った」
配給もなく日本人避難民1000名が死亡@元山(北朝鮮
避難民500名のうち90名死亡@高原( 〃 )


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 親日的なフレンノブ司令官

 元山(げんざん)日本人世話会は、八月末に松本五郎(金物商、府会議員)、佐藤広吉、小林武治(商業)の三氏を委員として発会した。

 北からの避難民は七千余、その内三千余名は各住宅に間借り形式で住込んだが、他はやはり寺院、料亭、遊廓等三十余カ所に収容された。

 元山では、最初食糧が配給されなかった。松本日本人世話会長がこの実情を訴えると、ソ軍司令官は、

「一カ月以上配給がなくても騒ぐことはあたらない。我々はドイツ軍に追いつめられて、のまず喰わずで二カ月も戦った。終りには、ねずみまで、くいつくした」

 といいながら在住民だけには配給をしてくれた。

「非難民の方がこまっている」

 というと、

「ソ軍の方は、かれらに退去命令も避難命令もだしていない。かれらが勝手に右往左往して逃げまどっている。従ってソ軍は、これら避難民を国際法上救済する義務はない。一応、みんな原住地にかえせば、彼(かの)地の司令官が救済する」

 といって考えてくれなかった。

(中略)

 しかしこの地も、越冬期の死亡者千三百名をかぞえ、そのうち避難民の死亡は千名をこえた。

 高原(こうげん)では、はじめ東拓農場倉庫に、十一月から高原駅の寮に五百名の人達が集結した。このうち、九十名が病死している。

【元山、高原】

 

平壌の日本人避難民は昭和20年12月から食糧の配給がなかったため、2371名が死亡しました。

日本人はせまい収容所につめこまれ、仕事をすることも、持ち物を売ることも、商売も許されませんでした。

日本人避難民に仕事はなく、持ち物は売らせず、商売も許されなかった、
1945(昭和20)年12月からは食糧の配給もなく2371名が死んだ@平壌北朝鮮

 

出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 平壌満洲避難民

 満洲避難民団と平壌日本人会は、全然別個の組織であった。

 清津や平南北〔へいなんぼく:平安南道平安北道〕から流入した避難民も平壌日本人会で世話をせず、この満洲避難民団の統制下にあった。

 避難民には仕事はなかった。もちものは売らせなかった。商売も許されなかった。十月はじめに、米と雑穀の配給が若干あったが、十二月からそれもなくなった。九月下旬から十月にかけて、もと軍人だったものは逮捕され、婦女子が九割五分をしめていた。

 収容所は接収されて転々とかわり、賑町(にぎわいまち)の遊廓地帯に二千三百名、ほかに崇実(すうじつ)中学(八百五十名)、下船橋(しもせんきょう)(八百名)、鉄道町会(七百二十名)など、合せて二十五カ所の収容所があった。

 やはり一畳に二名ないし、三・五一名という密集ぶりであった。

 老人と子供は早く死んだ。五才以下の子供は、一人もいない集団は多かった。火葬にするにもお金はなかった。六キロ郊外の竜山(りゅうざん)盆地までその死体をはこばねばならなかった。

(中略)

 その名簿は紛失して今みつからないが、松木氏の手もとにある墓地図によって、一人一人の埋葬を数えると二三七一名ある。

平壌

 

同じ平壌和歌山県の開拓団がいましたが、南鮮に南下する途中で娘さんが行方不明になったそうです。

それに、南下途中で死んだ家族を山に埋めたりもしているで、朝鮮で死んだ日本人避難民の数は17690名よりも、もっと多いと思います。

満州避難民の南下途中で年ごろの娘が行方不明、親のいない孤児、
和歌山県の開拓団は123名中67名が死亡@平壌北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 脱出ルート

 北鮮の日本人は、不安な生活の中で、日夜南下を夢み、祖国に一日もはやく帰って再起しようと考えた。正式引揚のデマは幾度かでては消えた。三八線をどうして越すかということが、北鮮の日本人のだれにも共通した最大の問題であった。

 大金で、朝鮮人を案内にたて、朝鮮服を着て南下に成功したものもいた。生活においつめられた避難民が、このままでは死んでしまうと決意して、ただ南へ南へと歩んだものもいた。

(中略)

 京城に南下した脱出者には、途中で年ごろの娘の行方不明になったもの、両親ともいない孤児、国境突破の際にみつかって、家族がばらばらになって半数が送りかえされたもの、或(あるい)は、途中で親が病死して死体を山中に埋めてきたものなど、哀話はつづいた。

 その中で、もっともいたましかったのは、満洲の敦化(とんか)塔刺●(たらちゃん。●は土へんに達)を八月十三日に出発した和歌山県伊都郡高野町出身の開拓団の人達であり、図們(ともん)、清津、咸興をへて、平壌で一カ月余の貨車生活をおくり、その年末に、京城についた時は、三十一家族百二十三名中、死者六十七名で、残存者わずか五十六名、全家族無事なものは二世帯だけ、その死者のほとんどは平壌であった。

平壌

 

南浦(ちんなんぽ)では約1700名の日本人避難民が死亡しました。

そのうち200名は幼い子供たちで、死因は悪性のはしかでした。

このはしかで、子供全員を失った母親もいたそうです。

生活困窮により日本人避難民1500名が死亡@鎮南浦北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 鎮南浦(ちんなんぽ)の敢闘

 鎮南浦終戦時に在住した日本人は八千余名で、満洲から入った避難民が八千五百名いた。

(中略)

 満州避難民は他地区と同じように勤労年令の男子はきわめて少なく(十二月現在で十七才から四十五才までは、六六四七名中三八七名)その生活もやはり困窮をきわめ、ここでも千五百名の死亡者を出した。

 はじめのころ、鎮南浦から闇船による脱出が企てられたが、警戒が厳重なために成功率は少かった。陸路では平壌を通過せねばならないので、脱出は非常に困難であった。

【鎮南浦

 


1946(昭和21)年4月、悪性のはしかで子供200名が死亡@鎮南浦北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その五-」

 

 引揚のの虚報に動く

 四月になって、平壌のソ軍司令部は北鮮日本人を鎮南浦、元山、興南、多獅島(たしとう)の四港から帰還させると発表した。それとともに、鎮南浦では、埠頭の倉庫を改造し、ソ軍少佐を長とする帰還準備収容所が開設された。まず平壌秋乙(あきおつ)にいた三千七百名の婦女子が、四月十二、三、四の三日間にここに移動してきた。

 これは米ソ会談の成功を見通してその手はずをととのえたものらしかったが、良心的に日本人のことを考えてくれていたミルグノフ少佐は、

"これは単なる移動であろう"

 といって、極力秋乙にとどまるようにすすめていた。

 鎮南浦日本人会は、輸送部をつくって、その準備をととのえた。しかし引揚船は来らず、それにひきつづいて、思いがけない悲劇が待っていたのだった。

 秋乙の医師、宮田寛博士は、次のごとく報じている。

「去るものの上に幸あれと祈りつつ、急に静まりかえった秋乙では、毎日鎮南浦の人達の身を案じた。

 鎮南浦におちついた人達は来る日も来る日も海をながめて迎い船の入港を待っているとの連絡がほとんど隔日にもたらされた。

 しかし日がたつにつれ、その文面はしだいに悲観的にかたむいて行った。

 待てども待てども引揚船の姿は、港にあらわれなかったばかりか、悪魔のように猛烈におそい来った悪疫は、人人を悲嘆のどん底につきおとしつつあった。

 今日は誰が仆(たお)れた、昨日は誰の子供が死んだと、悲痛な手紙が矢つぎばやにもたらされた。そして救援を求める叫びは、血のにじむおもいにかりたてるのであった。

(中略)

 私達は少佐の心こめたこのおくりものをたずさえて、五月二日鎮南浦へ到着した。宿舎は埠頭にある大きな倉庫で、その五棟に収容されていた。天井はなく、見上げるようなところに小さな窓がみえ、出入口は小さく、通風、換気、採光等およそ衛生的見地からは縁どおい建物であった。

 かたいコンクリートの床の上には、一杯に叺(かます)が敷きつめられて、その上にリュックサックや手廻品(てまわりひん)で堰をつくり各班のしきりがなされていた。ちょうど田舎劇場の観覧席を思いおこすのである。

 にごった空気は、頭痛と吐気をもよおす程であった。

 そして、すでに、六十余名の死者をだし、六、七百名の病人がその中でうめいている。病人の大部分は子供で、しかもきわめて、重いはしか患者であった。

 不眠不休の医師は、疲労の極にあった。秋乙では、はしかの流行は完全に防ぎえて、一名の犠牲者もなかっただけに、子供達のはしかにたいする抵抗力はまったくなかった。五棟とも完全に悪疫の巣窟と化していた。

 母血(ぼけつ)の注射もほとんどの子供にほどこされていたが、悪性のはしかは思う存分の猛威をふるって、片っぱしから可愛い子供を殺していった。

 二児、三児と全部の子供をうしなった母親もまれではなかった」

 ここでは二百余名が死亡している。他の地区では、越冬期に死亡して、春になると死亡率は激減しているのに、ここは引揚の虚報で移動したために、思わぬ犠牲が重ねられた。

平壌・鎮南浦・秋乙】

 

新義州では発疹チフスが原因で日本人20名が死亡しました。

日本が36年間統治しても、朝鮮の不衛生は改善できなかったのです。まるで伝染病の巣窟のような朝鮮に、日本人は丸裸で投げ出され、次々と死んでいったのです。

これらの人々は朝鮮抑留がなければ、生きて日本に帰還できたはずでした。


発疹チフスで日本人避難民20名死亡@新義州北朝鮮


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

 

 平北(へいほく)の各地

 満州避難民の収容所清明(せいめい)寮(元師範学校寄宿舎)に発疹チフスが発生したが、二十名の死者だけでくい止めた。

新義州

 

日本の朝鮮統治36年間の間に、朝鮮で暮らし死んだ日本人の遺骨もありました。

これもふくめると、朝鮮半島には相当な数の日本人の遺骨があるはずです。


鬼畜米軍「日本人の帰還は朝鮮人にやらせるべきである」、
釜山に置き去りにされた日本人の遺骨は無縁三千二百余柱、遺族が判明していたもの三一五三柱


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その五-」

 

 世話会職員をへらせ

 軍政庁はかねてから、日本人世話会には、医療部の担当以外は、

「日本人の引揚は、米軍の責任である。日本では朝鮮人の送還を日本政府で行っているし、朝鮮でも日本人の帰還は朝鮮人にやらせるべきである。ただ日本人を使用する方が能率的であるから日本人にやらせている。従って日本人は要員だけを残して能率的に仕事をすべきだ」

 と主張してきた。これにたいして世話会としては、疲れはててくる北鮮の同胞のために、世話会職員を確保しておくことの強調をくりかえした。

(中略)

 釜山世話会では、コレラのために港の閉鎖された閑散時代に、釜山の十八の寺院に放置されていった日本人の遺骨を調査、整理した。

 そのうち無縁のもの三千二百余柱を谷町墓地に集めて「無縁諸仏之墓」と記した墓石を刻み、七月二十八日にその慰霊祭を行った。遺族の判明していた三一五三柱は、十月に釜山世話会長鏡一以氏の引揚げの時所持して博多の聖福寺に安置して、遺族に引取らせた。

 南鮮で日本人の遺骨の整理を完了して来たのは釜山だけであろう。

 


日本人の資産を接収したものの自力で運営できなかった北朝鮮は、日本人に残留を強制しました。

のち、ソ軍から日本人引揚が許可されますが、南鮮に進駐していた米軍が「日本人移動禁止令」を発したため、北朝鮮に残留せざるを得なくなりました。

なぜ米軍がこんな禁止令を出したのかは不明です。

この日本に帰りたくても帰れなかった日本人たちは北朝鮮でどうなったのでしょうか?

「なりすまし」に利用されたのでしょうか?

「ヘイトだ!ヘイトだ!」

とうるさい在日外国人は、日本人が朝鮮で受けたヘイトスピーチヘイトクライム以上の暴力を日本で受けたことはないはずです。

現に、共産主義思想でいまだに「侵略」呼ばわりする資本主義国日本にコッソリ上陸して、戦前と同じように日本の福祉に寄生してヌクヌクと暮らしている。

生命が奪われることもない。

残留を強制されたり、抑留されているわけでもない。

なのに日本の都市には在日外国人の言うことを聞いて、「ヘイトスピーチ抑止条例」などというバカな条例を制定してしまう所もある。

本当のヘイトというのは、日本人が朝鮮で受けたヘイトクライムのように完全無視されて存在を否定され、生存権を奪われることです。

日本人は朝鮮を近代化し、米の増産にも成功した。その結果がこの対日ヘイトだったことを、日本人は決して忘れていません。

北朝鮮に残留を強制された日本人約13000名


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史」所収
京城日本人世話会 森田●夫 「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その五-」

 

 東北鮮の移動禁止と松村氏の画策

 咸興では、六月四日に移動禁止令が発表された。その時咸興では、二千名が残っており、興南では一般の人々はほとんど終っていた。

 興南工場に働く日本人技術者達は、一般の集団引揚の進捗をききながら引揚げたい望みが次第に高まっていたが、朝鮮側は残留を強要し、技術者の脱出の厳禁すらしていた。

 そのうちに、約三百名が残留者として決定し、その他の一般技術者は帰還してもよいことになった。これら帰還技術者たちは移動禁止令で汽車にのれないため一部は徒歩で、他は船で南下していった。

(中略)

 松村氏は、北鮮の日本人脱出禁止令が、南鮮米軍のソ軍への抗議によるものであるため、米軍へ受入緩和の工作の必要を痛感し、京城潜入をくわだてていたが、一行が全谷(ぜんこく)まできた時、突如、氏は逮捕されてしまった。

 その頃、金日成氏を暗殺しようとした養虎団というテロ団があり、その逃亡中の一味が三八度線附近で逮捕されその余類の捜査中であった。たまたま朝鮮語はたくみで、頑強な体躯の松村氏が一味とにらまれたものだった。

 氏は、養虎団の団員とともに、ソ軍にひきたてられて、漣川(れんせん)に向う途中、すばやく桑林の中に逃げて、その難からのがれた。ふたたび三八度線の越境をくわだてたが、特別警戒がきびしく目的がはたせないので、古市氏にあてた手紙を一朝鮮人に託した。

「国境事情が悪化しているとの報に接し、この調査打開かたがた連絡御援助いたしたく、出京を計画いたしましたが、障害あり断念します。

 今後徒歩突破ますます困難と思われ船か、または東海北部線を利用する予定であります。

 咸南北の残った日本人は、約一万三千名、大たい元山二百、咸興千八百、興南千六百、城津三千九百、清津五百、吉州四百その他、地方農家やソ軍炊事などに従事するものが約四千います。これらも、目下保安部を通じて各都市に、集結中であります。

 城津の四百名は、本日国境を突破し残りも移動許可をとって、船をだす手はずにしております。

 ソ軍関係に、積極的に働きかけた結果、五月十七日の司令官会議で、脱出黙認と決定し、各地とも大規模な移動をはじめましたが、中途において、米軍側から抗議あり、日本人移動禁止令をうけました。

 この打開には、会長の援助にすがるより他に道はないと考え、私の出京の第一目的は、その報告と御尽力をお願いするにありました。

 私らは、五月初旬、金日成委員長と連絡なり、諒解をえて、七月十日から平壌に駐在し、御期待にそむかないように、全力を傾注します。」

 松村氏の平壌移駐は、何とかして平壌を動かしてもらいたいという古市氏の希望に添わんと努力したものだった。しかしこれは実現をみなかった。


【米軍の日本人移動禁止令で日本人が足止めをくったと思われる場所】
〔西鮮ルート〕
①京義(けいぎ)線の南端金郊駅まで下り、そこから徒歩で土城(どじょう)に出る。
京義線沙里院(しゃりいん)できて、海州(かいしゅう)線にのりかえ、鶴峴(かくげん)で下車、20~24キロの山道を徒歩で青丹(せいたん)に出る。一番利用が多かったルート。
沙里院から海州線と京義線の中間の小道を徒歩で延安に出る。
④西海岸を船で仁川附近、延安沖、うまくいけば漢江をさかのぼって京城の麻浦(まほ)に出る。

〔東北鮮ルート〕
①京元(けいげん)線をできるだけ南まできて下車、福渓(ふっけい)、鉄原(てつげん)、大光里(だいこうり)、漣川(れんせん)、全谷(ぜんこく)などの駅から山に入り、三八線をこえて抱川(ほうせん)、東豆川(とうとうせん)、高浪浦(こうらんぽ)へ出る。
②元山から京元線の西北の山間を通り、伊川(いせん)街道に出て三八線をこえ、高浪浦、長湍(ちょうたん)、開城に出る。
③京元線の安辺(あんべん)の近くから山間を通り、春川に出る。または福渓附近から金化(きんか)をへて春川に出る。
④東海北部線の終点、㐮陽(じょうよう)で下車、24キロ歩いて注文津(ちゅうもんしん)に出る。
東海岸を船で南下して釜山まで下る。

 

 

 


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